2012年5月 7日 (月)

古墳時代の話

5世紀に入るとヤマト王権は本拠を河内平野へ移し、朝貢することで朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく、その目的にふさわしい官爵を求めて中国の南朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。
倭の五王最後の倭王武に現時点で比定されているのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、後世雄略天皇(470年頃治世)と諡(おくりな)されている人物である。このころより、大王_(ヤマト王権)や治天下大王と称するようになる。また朝鮮半島での勢力拡大を思うように行えなかったことから、それを目的にしていた中国の王朝への朝貢も行われなくなった。この時期の前方後円墳は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。
倭の五王の後、5世紀後半から6世紀前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。しかし北陸・近江根拠地の傍系王族から即位した継体天皇の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。なお、継体天皇期には、北九州で磐井の乱などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族磐井の関係については不明の点が多い。

Wikipedhiaから抜粋

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